金沢でフランス語、英語、美術を学び、ナンシーへの留学を目論む、はぐれ医学生のブログ。至高にして究極の人形を生みだすために奮闘中。 急げ!人生には学ぶべきことが多すぎる。
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医王山にハイキングに行く
クラスメートのN嶋さん、彼の娘Nちゃん、DDさん、Mくんと医王山にハイキングに行った。といってもハイキングと呼ぶには少々厳しい道程であった。しがらくびPから白π山へ。大池平を通って三蛇ガ滝へ。鳶岩に登って戻ってくる。ハイキングって穏やかな響きのせいで飲み物しか用意していかなかったが、よい考えではなかった。

標高1000Mもない山。天候は曇り。ランニングシャツ一枚でちょうどよい涼しさ。土は湿気を含んでいて少々滑りやすかった。でも転んだのは一回だけだ。ビッグ・ボスにこんなところをホフクさせていたとは。少し申し訳ない気になる。

Nちゃんはすいすいと先頭を切って走っていく。わしの半分以下のストローク、ちょこちょこちょこちょこと効果音が出そうなぐらい小さい身体のくせに。わしがアラレちゃん風に両腕をぴんと張ってキーーーン!と追い抜かすと、Hくん待って〜ってこれまた小さな声で呼ぶので、わしが待っててやると何も言わずにさっと脇を通り過ぎて先頭を奪う。にゃろう。

三蛇ガ滝は小さいけど高さのある滝。すとーんと一気に落ちてくるのではなく、三段かけてひょひょひょいと落ちてくるからこういう名前らしい。その隣、滝の流れをまたいで1Mばかり上がったところにひっそりとしたほらあなが口を開けている。熊の住処か?と用心して石を片手にMくんと押し合い圧し合い、お前先に行けよ、じゃんけんや、携帯のライトつけろ、とチキンっぷりを存分に発揮しながら、光の届かない先にはやっぱりいけない。N嶋さんが写真を撮ってみるとなんのことない、3Mも奥行きがない。小さな石づくりの観音(かな?)像がちょこんと置いてあるだけだった。
iouzen

鳶岩に登る崖は怖いのなんの。手を滑らせたら一瞬であの世逝き。なんでランニングシャツだけで軍手もなしで来たんだろう?とやっと疑問に思う。ここでもNちゃんははりきる。鎖を両手ではっしと掴んでがしがしと登っていく。この子クライマーの才能あるわー。頂上まではかなり長く感じた。鳶岩でタイタニック計画は無謀で実現しない。腰が引けて、立つなんてとても考えられない。岩の一部分かなめくじになったかのようにぴったりと身を寄せて、ずるずると移動する。鳶岩の上から向かい側を見下ろすと、さっきまでいた大沼(おおいけ)がずっと下に見える。
iouzan

わざわざ雪も降ってない時期にジムに引きこもって走ったり筋トレしたりするよりも、こうやって山をざくざく分け行くほうがおもしろいトレーニングになるかもしれない。
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美術手帖7月号の特集は日本のアーティスト
正直な話、コンテンポラリー・アートは一体何を伝えたいのかわかったことがなかった。うりうりと手を振り回してみたらこんなんできました、ってのが腐るぐらいに洪水みたいに溢れていて、何の因果か因縁か知らないけど人目を多く惹きつけちゃった幸運な作品が美術館やギャラリーに並ぶのかいな?みたいな偏見しか持っていなかった。(ファイン・アートにだってそう思うことがままあるけど。)だが今回の特集でアーティスト自らアーティスト論を振りかざしているのを読んで考えを少しだけ変える。彼らの言葉は詩的で哲学に満ちている。内省的なものもあれば、外に働きかけようって言葉もある。作ることでしか伝えられないことがあるから作っている、そんな真摯な姿が垣間見える。でもやっぱり何の説明も無くあの作品の前に立ったら、どんな表情をしていいか分からなくなる確信がある。

西尾康之、陰刻法で有名な人。とてもきれいな水死体を描く。陰刻法というのは、普通の塑像が外側→内側にねちょりと粘土を貼り付けて整形していくのに対し、内側→外側に形作って行く方法らしい。解説によると、鑑賞者は普通の塑像に対しては製作者と同じ立ち位置から作品を見る。陰刻法の彼の作品に対しては、鑑賞者は彼と向かい合う格好になる。ならばあのセイラ・マスを見上げるときも、ふと彼と目が合ってしまう瞬間があるはず。気持ちのいいものではない。見るものと見られるものの逆転。これがアート。

デミアン・ハーストってイギリス人も紹介されている。牛の頭部と蝿を密室に閉じ込めて、蛆がわいて蛹になって羽化して交尾して卵を産んで電熱灯に突っ込んで死ぬ様子を見せるとか、単なる牛やサメのホルマリン漬けだとか、蝶の羽を何万枚も貼るとか、8mの人体模型だとか、数十億円かけてダイヤでギラリと輝くシャレコウベを作っちゃうとか、およそアートという言葉からは想像できないと言うより、もうどんな言葉で呼ぶこともできない。言葉は枠を作る。芸術家は革命家で冒険かだ。相性はお互い良くないだろう。

↓ハーストの作品の動画はこちら。ちょっとグロテスク。


誰もが程度の差こそあれ自己顕示欲を持っている。みんなから注目されたいし、褒められたいし、話を聞いてほしいし、崇められたいと思っている。そんな数え切れぬ競争相手たちと張り合って成り上がってきたアーティストの自己顕示欲に感服した。
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祖父の見舞いに行った
脳梗塞で入院した祖父の見舞いに行った。病院は嫌いだ。入院はもっと嫌いだ。

「お年寄りの立場になってみよう」って企画、やったことある人も多いだろう。わしの高校でも一度あった。鼈甲色のサングラスをかけ、耳栓つけて、おもり入りベストを着て、手首足首にもおもりを巻いて、肘膝をサポーター縛って、ゴム手袋二重にはめて動きにくくする。それで体育館を一周したり階段を上がったり降りたり。リモコンに電池をはめてテレビのチャンネルを変えたり。ペットボトル開けてお茶をコップに注いで飲んだり。正直な話、当時は老人の身になってみるなんて気分はさらさらなかったが。入院している祖父を見て、わしも60云年経ったら否応無くああなるのかなァ、とふと思い出した。

さあやってみましょうね、で負荷を増やして外すのは何でもないことだ。しかし、誰もが気づかないほどのゆっくりゆっくりのスピードで、じわじわとあの状態になっていく……筋肉にどうしようもなく染み付いていて、スチャッと脱いでしまうことのできない重荷が!これは想像しちゃうと最高に絶望的な恐怖だ。想像しなければ自然と受け容れていく。人間には動かすことのできないキマリがある。衰えなくてはならないし、いつかは死ななければならない。

わしの歳で心配することでもないんだろうけど。老いと死の恐怖を考えることは、一日一日をより良く生きようとする意志に結びつくだろうか。
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書評 森博嗣「どきどきフェノメノン」角川文庫
森博嗣の作品としては珍しいラブコメディ。主人公は二十四歳、大学院ドクターコース在籍の窪居佳那。酒を飲むと性格が豹変し、しかも気づいたときには記憶が残っていない!という困った体質の持ち主。文章は常に彼女の一人称なので、無意識のうちに何が起こったかを追うところにミステリィの味付けがされている。しかし最大の謎は彼女が誰と付き合うことになるのか?である。後輩の爽やか青年・鷹野。人形オタク・水谷。指導教官・相澤。父の知り合いの僧・武蔵坊。毎夜公園で犬の銅像を磨く話したこともない男。それとも、やる気0で参加した合コン相手?逆に彼らが佳那のことをどう思っているのか、も気になる。あんまり物語世界に馴染んでて忘れがちだけど、人間は一人称の世界しか生きることができない。そう考えるとすべての恋愛沙汰はミステリィだと呼べるだろう。

主人公の心象と観察だけで進む一人称の物語は、主人公を好きにならないと読むのが苦痛になるものだ。佳那の恋愛観は共感できたのでそんな心配はなかった。

(前略)だいたいにおいて、生活の身近に他人がずっと存在し続ける状況というのは、彼女は好きではない。できれば自分ひとりきりが良い。こんなふうで将来どうなるのか、と少し心配ではあったけれど、これは一種のハードルであって、この嫌さを乗り越えるような好ましい状況がきっと訪れるに違いない、とも考える。べつに、白馬に乗ってこなくても良いけれど、どこかの国の王子様だったら、ハードルをクリアするかもしれない、ということだ。そうでなければ、世の中のこんなに大勢が恋人と暮らしたり、結婚したりするはずがないではないか。



そんな彼女の趣味は「どきどき」の探求。例えばこんな風に。憧れの男性の嗜好を調査し、コンサートチケットの当選ハガキを捏造し、変装して隣の席からひっそりと彼の横顔を眺める……。おいおい、直接誘えばいい話じゃないか、まどろっこしい!とは思わない。恥ずかしいからとか断られるのが怖いからという理由で誘わないのではなく、極上の「どきどき」を味わいたいがためにあえてそうするのだ。誘うか?誘わないか?の二択しかないと思い込みがちなところで、もう一つの選択肢を練りだした彼女はエライ!
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モナリザの暗号?
 次の作品は母をモデルに母子像を作るつもりだ。母が是非に是非にと言うもんだから。家族をモデルにするのは誰かを雇うのに比べて随分とお得なので断る言が無い。金がかからない、気兼ねしない、触ってもよいし、孝行にもなる!

 母子像はキリスト教圏でなくとも人類普遍のテーマ。構図を考えるために偉人たちの作品は大いに参考になる、というより今回は欠くべからざると言うべきだ。母の要望に従うと、いないはずの赤ちゃんまで作らなくてはならない……。無茶な。てことで美術研究科図書室に初潜入を果たした。なぜかチョッパーのぬいぐるみがひっそりと佇んでいる!この部屋で密室殺人事件が発生したとき、すかさずクリティカルな役割を果たそうと機会を窺っているようだった。

 E藤先生の話によると昨今の小学校の美術鑑賞教育では、子供たちに自由な発想をさせよう、個性を潰しちゃいかん、ってことで一般的な学説はあえて教えないようにしてるらしい。でも高学年になってもそのままでいいのか?通説を一旦知ってしまうと縛りのない感想は再生不可能なのか?どうだろう。知識に飲み込まれる程度のちっぽけな個性は、保護する価値なんてないと思うがね。

 図録を見ながらモナリザの鑑賞すべき点を教えてもらった。
 答え方は人それぞれだろう。

「ルーブルで実際に目にしたときどう感じた?」
「この人は男?女?」
「年齢は?」
「身長・体重はどのぐらい?」
「なんで眉毛が無いの?」
「どうして黒い服を着てるの?」
「座ってるの?立ってるの?」
「この人は笑ってるの?怒ってるの?」
「顔の上半分、あるいは下半分、左半分、右半分を覆っても表情は変わらない?」
「背景に何が見える?」
「気候は?」
「天気は?」
「左の背景と右の背景は高さ違わない?」
「左の湖と右の湖はどっちが水量多い?」
「なんで人物と背景と別個に描かなかったの?」

 こういうポイントを突くだけでは、小学生の鑑賞と変わらないわな。
 作者の意図を酌み、歴史的価値を認めるためには、学者の見識に耳を傾けるべきだ。

 E藤先生曰く、を簡潔にまとめると
「レオナルドは無神論者の科学者だった。世界を構成する4大元素火・水・土・空気の中でも特にに注目していた。水は火を消すことができるし、土を削り取れるし、蒸発すれば空気に舞うこともできるでしょ?背景は水の状態の遷移によって創世から終末までを表している。すなわち右奥は深く水を湛えた母なる海を、左奥は大地の誕生とその上に流れる川を、右手前の橋は文明の夜明けを、左手前は水が枯れ果てた滅びの世界を描いているんだ。人物像は中性的な顔立ちの喪服を纏った妊婦。表情は一見微笑んでいるようだが、どうとでもとれる複雑なものだ。つまり背景で自然の、人物で人間の一生を描き、コズミックな不可分のつながりを示しているのである!」

「マジですか!500年前の人間がそんなことを考えていたなんてビックリだ!」
 久々に感動させられた。

 随分流行おくれだけど、「ダヴィンチ・コード」を観た。うーむ。途端にレオナルドのメッセージが胡散臭くなってきたぞ。いや、見方を変えれば革命的?これがロマン?本が世界中でバカスカ売れたらしいが、清涼院流水を翻訳したら一億部いけるんじゃない?でも無理か。あの翻訳は。
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書評? 乙一「ZOO 1」集英社文庫
 5本の短編が収録されている。その一つ一つが異なった個性に彩られていて、乙一の才能に驚かされる。双子で同じ容姿なのに姉だけが母から虐待を受ける「カザリとヨーコ」。姉弟が密室に閉じ込められる「SEVEN ROOMS」。両親が突然幽霊になってしまった子供「SO-far そ・ふぁー」。人類最後の生き残りを埋葬するためだけに作られたロボット「陽だまりの詩」。恋人を殺した現実を受け容れまいとして必死に一人芝居を続ける男「ZOO」。

 3ヶ月に1回程度だが、鬱の季節だな、と感じることがある。執着心が薄れる、集中力が保てない、ニュースに無関心、身体を動かすのがだるい等々。といってもわしのは生活態度から出た問題なので、鬱と呼ぶのは語弊があるか。週末、予定が無かったので、フランス語の勉強をみっちり、買うだけ買って積んである本を読み進めようとした。……結局フランス語は大して進歩することはできなかった。友人から借りた乙一の本「ZOO」、「GOTH」が面白すぎた。清涼院流水の「コズミック」→「ジョーカー」→「ジョーカー」→「コズミック」はやばすぎる。結局土曜日は部屋から一歩も出ずにひたすら本に齧りついていた。一日でもあの陰気な部屋に籠もってしまうともうだめだ。次の日はなんとか12時前に起きることができたが、頭がぐらぐらして、脚の筋肉も痩せた感じがして、鬱の季節だー、と感じる。気分転換にと、危なげに車を運転して無理に学校に行ってみるけど、やっぱりぼんやりして新しく手をつけようと思ってた彫刻のイメージは五里霧中。一度こうなってしまうと四日はこんな感じで、一日部屋に籠もってたのと全然釣り合いが取れていなくてげんなり。フランスで言葉の密室に囚われて自室に閉じこもるようなことになったら一層危険だ。早寝早起き、子供は風の子と幼い時分から誰もが言い聞かされているのはズバリ的を得ているんだなァと反省した。
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買い換えるか否か
3年前に買ったデジカメの調子が悪いので、修理に出してきた。海外旅行に行くたびに迷ってきたことだが、古いデジカメを使い倒すべきか?せっかくだから最新のに買い換えるべきか?とりあえず今回の留学では古いのを持ってこうかと考えてる。写真家になるわけじゃなし、記録するのに不都合はないんだから。この3年間を振り返ってもデジカメってすっごい多機能・高機能になってるし、そのうち電話やネット、ラジオもできるようになるんじゃない?……それはないか。新しいの欲しいは欲しいけど、進化が速すぎて買うタイミングが掴めないんだよなぁ。パソコン、炊飯器、オーブン、冷蔵庫、ラジカセ、DVDやらBDプレーヤー、他の電化製品もいつ買えばいいんだろう。まさか新しいモデルが出るたびに買いなおしている人は、……いそうだな。でもほとんどの人はわしと同じように迷うもんだと思う。必要になったら買う、単純な話なんだけど必要を定義するのが難しい。

そんな中、進化に次ぐ進化の最先端に立つTVゲーム「メタルギアソリッド4」が発売された。今すぐ大型プラズマテレビとPS3とソフト買ってきてプレイしたい!でもサルのようにのめり込みそうで怖い。去年のテスト期間に「メタルギアアニバーサリーコレクション」を買ってしまったことを思い出せ!寝食忘れて没頭して、さらにシームレスに「ディスガイア3」に移行して、授業に行く気も失せるだろう。ビザを取るのを忘れて留学できなくなって、それでも部屋に籠もり続けるだろう。泣く泣く「メタルギアソリッド2バンドデシネ」を観、ユニクロのコラボTシャツを着るエコノミー路線で済ませる。来年帰ってきたら、「バイオハザード」や「ファイナルファンタジー」の新作も出てるか、発売が近いはずだ。ガマンガマン。
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書評 恩田陸「六番目の小夜子」新潮文庫
あらすじ
とある地方の進学校に受け継がれる奇妙なゲーム。3年ごとに見えざる手によって選ばれる「サヨコ」が学園祭の展開を左右する。「彼女」は本当に存在するのか?半信半疑の生徒たちの前に伝説と同じ名前を持つ謎の美少女転入生沙世子が現れる!過ぎ行く高校生活最後の1年に巻き起こる事件……。

 恩田陸って有名だけど、ミステリィ、サスペンス、ホラー好き、つまりは密室流血金切り声好きのわしは手に取ろうとは思わなかったのだが、友達が貸してくれたんで読んでみた。ふむふむ。うーん。うむむ……なっ、なんて普通なんだ……絶句してしまった。メフィスト系の小説ばっか読んでたからか。しかしこれが正しい高校生の在り方かしらん。毎日毎日、義務でもないのに登校して、狭い教室に40人押し込められて、変わりばえの無い椅子に座って、まっすぐ黒板に向かって並んで、先生の話を聞いたり居眠りしたり、それが先輩から後輩へ何十年も同じ部屋で続いているなんて、よくよく考えれば奇妙な話だよ。でもそれが現代の普通、一般、共通の認識。ノスタルジイさえ感じさせる光景。

 わしはと言うと高校の思い出はほとんどないんだが。学校を毛嫌いしてて、高3のころは「独りで勉強してたほうが効率良いんじゃないか?高校辞めて大検取って受験しよっかな」なんておバカなことを考えるほどだった。部活も部員じゃなくて部が幽霊みたいだったから熱血青春物語とは程遠かった。こういうわしでも、この本の高校生たちを見てると、微笑ましいような、やっぱ高校生っていいなァ、友情か恋愛の真似事ぐらいしてみるんだったなァ!みたいな気分にさせられるから不思議だ。ミステリかホラーっぽいところもあるけど、ノスタルジイに比べればおまけみたいなもんだ。

 話は変わるが英語の時間にSFの古典がテーマになった。肉食植物トリフォイド。ストーリーはこうだ。「主人公が目を怪我して入院中に地球を謎の隕石群が襲う。隕石群は地球の周りをぐるぐる回り続けて奇妙な緑色の光を放ち、昼も夜もわからないほどずっと明るくなる。その光を見た者は失明してしまう。緑色の光の波長の影響か、地面を闊歩し、人間を食べる植物トリフォイドが出現!」(英語で書かれてたからちょっと本物と違うかも)さぁ、想像してみよう。人類の99%が失明してしまった。しかも人喰いモンスターまで現れた。人類はこれからどうなっていくだろう?
 
 試しに考えてみたらこうなる……。日陰になるところが多い都市部、サングラスを持ち合わせた人だけが失明の危機を逃れる。田舎は全滅。目が見えなくなったところにトリフォイドがしめしめとやってきて人間を次々飲み込んでいく。目の見える人は見えなくなった人を助けない。金を巻き上げ、食料を奪い、トリフォイドに襲われたところで助けはしない。深刻なのは食糧難。四六時中明るくては野菜も果物も育たない。完全に室内生産の供給。当然見えなくなった人の分までは無理で、餓死するものもいるだろう。他にもいろいろ考えられる。政府はどう出るのか?存続できるのか?報道機関は生きているのか?飛行機や船は動かせるのか?トリフォイドを倒す手段はあるのか?トリフォイド以外に進化した生物が現れないか?失明した人が超能力を身につけるとか?通貨は使われ続けるか?学校はなくならないか?クラスメートの一人によると、失明した男は殺される、女は犯されるだろう、とのことだった。さもありなん。

 わしがノスタルジイを書こうとしたら噴飯ものになるだろうな……。
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書評 高田崇史「試験に出るパズル 千葉千波の事件日記四月〜八月」講談社ノベルス
あらすじ
代々木の浪人生“八丁堀”と従弟の天才高校生千葉千波、悪友の饗庭慎之介が巻き込まれる論理パズル短編5本!

 パズルを魅せるためだけに書かれたような小説。主人公“八丁堀”と千波の関係は公一くんとビーティーを想起させる。しかし千波くんはあんまりにも解決マシンっぽい。頭脳明晰、スラリ・サラリ・パサリの美少年って説明があるけど、説明負けしてるような。次巻以降変化があるのかもしれないけど、パズルに注目させるために淡白にしてるんだろうから多分変わるまい。ストーリーは、解説の森博嗣の言葉を借りれば「本格ミステリィあるいはパズルを力ずくで日常へと連れ込んだポン引き的小説」。完全に話し言葉で書かれているのは、問題を考えさせるために読み流しやすくしているのか。話はずれるが森博嗣って解説書くのも上手いね。「QED」じゃなくて「すべてがFになる」を読みたくなってきた。公式ホームページ「森博嗣の浮遊工作室」で小説はあくまでビジネスと言い切っているが、他人の本で自分の本を読ますほどの文章を書くとは……恐るべし。
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書評 辻村深月「子供たちは夜と遊ぶ(上下)」講談社文庫
 あらすじ
 アメリカ留学の懸かった論文コンクール。最優秀賞候補は同じ研究室の学生、木村浅葱と狐塚孝太。勝利を確信していた浅葱だったが、なんとかっさらっていったのは謎の匿名学生i(アイ)だった。iの正体を探る浅葱に対し、iは自分が生き別れた彼の兄だと告げる。そしてiから浅葱に届けられる殺人ゲームの招待状。浅葱は兄に会いたい一心で殺人に手を染めていくが……。

 上下巻合わせて1000ページを超えるが、次を読みたいって気分がどんどん湧いてきて止まらない。特に見事なのはなんてこった!の叙述トリック。しかも明かされるタイミングが絶妙。読んでて違和感はあったけど、そこまで勘付けなかった。ドロドロの殺人劇のはずだったのに、エピローグで見られる殺人鬼の前向きさには爽やかな気分になる。そこも不思議に魅力的だ。   

 小説の小道具を増やすためにはいろんな分野の雑学が必要だ。この小説には蝶に関する印象的な話が出てくる。一つは小学校時代、クラスでモンシロチョウの幼虫を育てていると別の幼虫が腹を突き破って出てくるというショッキングなエピソード。アオムシコマユバチといって野生の青虫の半数に寄生しているという。綺麗な蝶が殺されて蜂が生まれるなんて!って小学生は暗い気分になるだろうけど、農家の人にとってはモンシロチョウのほうが野菜を食いつぶす害虫。寄生バエってのもいて自然の生存競争は本当に熾烈だ。もう一つ、急所に当たる部分なので書かないけど、とある蝶のウンチク。

 わしも庭先の生態系に注目してみることにした。なにやら黒い幼虫がシャムシャムと音をたてて葉を食べている。葉っぱの上の黒なんて食ってくださいって言ってるようなもんじゃないか。これ蝶じゃないの?と思って調べてみると、どうやらこの時期にはメジャーなカブラハバチって奴っぽい。まだ小さいからはっきりとはしないけど、蜂かよ。害虫でもいいから蝶のほうがよかった。地面に落ちると丸くなるって書いてあったのでためしに枝で落とそうとしてみる。たしかに丸くなったが、口の部分でしっかり葉に食いついていてなかなか落ちない。一度葉から落とされた幼虫が再び葉の上に乗るまでの道のりを考えれば、そりゃ必死になるわけだ。

 虫っていえば、「いきものがたり」って粋なデザインの本で紹介されていたイチジクコバチの話を思い出す。雄は雌のために、雌は子供のために生き、最小限で最大の役目を終えるとすぐに世を去っていく。イチジクは奴らの命を宿して実る。このサイト
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/50/research_21_2.html
で詳しく載ってるが本当に熾烈だ、生存競争は。


君が生きているというそれだけで、人生を投げずに、生きることに手を抜かずに済む人間が、この世の中のどこかにいるんだよ。不幸にならないで。

 虫たちが聞いたらタリメェだバーローって言い返されそうな文句だけど、人間がそれを実感するのは難しいんだよね。 
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富山産アニメ「True Tears」を観た
 I.G.プロダクションと仕事をしている会社が富山県にあるのは以前New typeにちょこっと記事が載ってたから知ってたけど、そこが富山を舞台にしたアニメを作っていたとは。それが1月から放送されていたとは。県内では4月から放映されていたとは。自らの寡聞を恥じつつ、一気に全13話観た。おおー、我が故郷が出てるよ!感動!物語で高校が舞台になるのが多いのは、どんな人も高校時代にはやり残した宿題があると思ってるから、らしい。セチュネェー。

 北陸は関東みたいにアニメの放送枠は多くない。自然とアニメ好きも少なくなりそうだが、わしは中学時代のカウボーイビバップをきっかけにすっかりのめり込んでしまった。そのころから都会志向が芽生えたのかもしれない。都会に行けば好きなだけアニメが見れるのによう!絶対大学は東京行ったる!と嘆いていたのも今は昔。ネットに繋げば日本のどこにいようが最新のアニメが楽しめるようになった。良い世の中になったと単純に思う。

 だけどなんでTrue Tearsを発見できなかったんだ?3月までだけでもARIAや、みなみけや、クラナドや、絶望先生とか、もう何十回もネットに繋がって何時間も人気アニメを見まくってたのに、なんで地元の情報はすかすかだったんだ?これがネット社会の弊害ってやつか?全国で情報が共有されるようになって、東京の比重のほうが絶対的にでかいわけだから地方の情報は薄まってしまったってことか。それでも。それでもやっぱり今のほうが便利で快適で享楽で、肯定せざるを得ない。

 聖地巡礼してみるか……。うたかたの舞台を見ようと鎌倉に行ったきりだったが、まさか富山でできるとは。P.A.ワークスには足を向けて寝られぬ。
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書評 西尾維新「クビキリサイクル」西尾維新文庫
著者別に見た場合、小説でわしの本棚を一番占めてるのは西尾維新。のわりに代表作である戯言シリーズは一冊も置いてなかった。ノベルス版はクビキリサイクルの表紙イラストがちょいと気にくわなかったので、友達から借りて済ませていたのだった。4月から表紙が書き換えられて文庫化するので、やっと買い揃えられる。

あらすじ
財閥の令嬢によって絶海の孤島に集められた5人の天才! 巻き起こる連続密室殺人事件! 天才技術者玖渚友と付き添いの戯言使いいーちゃんは事件を解決できるのか?

あくの強いキャラがわんさか登場。と言ってもデビュー作だからか著者の他の作品と比べると大人しめ。シリーズが進むごとにとんでもないやつらがでてきてどんどんおもしろくなってくる。キャラ立ての教科書のようだ。似た内容を手を変え品を変え繰り返すレトリックはたまにくどいけど大方楽しめた。竹氏のイラストもばっちり合っている。今作は一応ミステリーに分類されるんだろうけどトリックはいまいち。しかし、気になる複線が回収されないままに事件が終わるかと思いきや、終わった後の後のどんでん返しでスカッとさせられる。このエクスタシーは並みのミステリーじゃ味わえない。

ところでこの本には天才天才ってたくさん出てくる。男でも女でも人間なら一度は憧れるであろう天才。じゃあ天才たるべきにはどうすりゃいいんだ?
後日談で万能の人は天才をこう表現する。

ベクトルなんだよ、要するにな……。人生における時間を、一つの方向に向けて全部発揮できる人間。人間にはいろんなことができる。だけどいろんなことをやらずに、たった一つだけにそれが集中したとき、それはとんでもねえ力を発揮できる。それこそ遠くの人だと思えるくらいにな



一方で天才玖渚友の言葉。

僕様ちゃんは何でもやるよ(中略)専門だとかなんだとか、そんなので縛られるなんて真っ平だね


こんなことを言えるのは才能あるものの特権だろうが。

わしは一つのことばっかに集中するのは無理だな。世の中には面白いことがたくさん有りすぎるのに無視できるはずがない。だからこそ、たった一つのフィールドの中に残りの世界を凌駕する面白さを見つけてしまう人は天才なんだと思う。他人に認められることがなくても。他人の目を気にするような人は天才とは呼べんだろう。わしは人に褒められると嬉しいし貶されると悲しくなってしまう凡人で、県展に出した作品も今更もっと冒険してインパクト付けりゃよかったぜなんて思ってしまう。結局わしは世の中に認められたいのであって、天才になりたいんじゃないんだね。憧れは憧れ。
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